2005年11月19日

女、というもの

新潮45を読む。
中村うさぎさんが、デリヘルで働いた経緯を書いているのだが、
正直言って、同世代としては涙なくして読めない。
15歳年下の惚れたホストと同衾したものの、彼は不如意。
「女として見てもらえなかった」ことに、彼女はひどく傷つく。
まさに慟哭の手記、といってもいいくらいだ。
その結果、彼女は整形やダイエットにいそしみ、
そしてデリヘルへとつながっていったのだ。
男が金を払って、女への幻想を買う風俗、
そして女は女として扱われる、ある種の満足を得ることができる・・・。
気持ち、わかる・・・と涙ぐんでしまった。

女40代。どうがんばっても、自分が男を引きつけられる容姿ではなくなっている
ことに、実は自分がいちばんしっかり気づいている。
それなら、さっさと女を降りればいいのかもしれないが、
なかなかそうはいかない。まして、好きな男ができたりすれば。
そこで、「40代は女盛りよ」と開き直れるほど自信はない。
「容姿より内面よ」と言い切る自信もない。
年くって、多少、精神的には余裕も出て、友だちづきあいならできる。
だけど惚れた男に「女として見てもらえない」ことほど、
女が傷つくことはない。
実際に関係をもつかどうかは別としても、女は女として求められたい、
という欲求がある。
人として尊敬されたいか、女として求められたいかと言われれば、
多くの女が後者をとるのではないだろうか。
かといって、なかなかそういう感情はあからさまにはできないものだ。
がつがつしている感じが、ますます男の気持ちを遠ざける。
「花の命は短くて」ということだろうか。
なんともわびしく、そしてせつない。

少し気分が脱出

かの編集者の死が、意外なほどショックで、ようやくそこから
脱しつつあるところ。
今週、三島由紀夫原作の映画『春の雪』を観た。
原作から、恋愛部分を集約させて撮った作品。
役者に多少の不満はあるものの、内容的には「凝縮された恋愛」を
感じ取ることができた。

抱き合うことは、感情を発露させるものかもしれないとふと思う。
恋の狂おしい感情を、抱き合うことでぶつけるのではなく、
減少させていくこともあり得るのだろうか?
狂おしい感情を発露させずにためていくと、いったいその感情はどこへ行くのだろう。

行き着く先がわかっていながら、どこまでもとことん行ってしまう関係は
せつないのか幸せなのか。
そもそも、人を恋う気持ちっていったい何なのだろう・・・。

破滅に向かう恋は、贅沢なものなのだと言った人がいる。
恋なんて、したいと思ったことは一度もない。
「春の海」のふたりだって、破滅したくてしていったわけではないだろう。
あの結末が「破滅」なのかどうかもわからない。

年をとると価値観が定まってくると世間では言われているが、
私は不惑を過ぎて惑ってばかり。
たぶん、価値観が定まるのが怖いのだと思う。
自分が今まで知らなかった感情を知りたくてたまらないし、
まったく違う価値観をもった人に取り込まれていくのもおもしろいと思う。
固まることへの恐怖感があるのかもしれない。
「自分」をもたずに、するするにょろにょろと人の間に入っていく。
それはともすると、かなりつらいことなのだが、
そうしてみないと自分を確認できないような状態になっている。
そんな気がする。
たまには水のように生きてみるのもいいかもしれない。