昨日1月27日は、モーツァルトの生誕250年だそうだ。
250年前というと、1756年。
日本では江戸時代も後半に入り、九代目将軍家重の時代。
そこから35年の生涯を、モーツァルトは駆け抜けたことになる。
今年はヨーロッパはモーツァルトイヤー真っ盛り。
私は家にお篭もり状態。原稿執筆が続く。
なかなかいい調子で書けているので、(内容はともかく)
このまま続けるぞ〜という感じだ。
今回も最初はつらかったけど、途中からだんだん乗ってきて、
ご飯食べようよ〜、というお誘いも、
遊ぼうよ〜というお誘いも、珍しく断ってのお篭もり。
友だちから応援グッズもいただいたりして、
すべて食べ尽くしながら、がんがん書いている。
書くのが楽しい、と思える一瞬。
後半戦、再度、あの苦しみがやってくるのだとわかっているので・・・。
そういえば、「体の中を風が吹く」という小説があったなあ、とふと思い出す。
佐多稲子さんだった。
ここ数日、また寒さがぶり返して、まさに体の中を風が吹き抜けていく感じ。
心がぽかぽか温かいかといえば、そんなこともなく。
あったかくなったかと思えば、急にせつなくなって冷え込んだり。
いつもながら、気持ちを穏やかに保つ、というのはむずかしい。
1月は超大作オペラ「ニーベルングの指輪」(マリンスキー劇場)も
あったし、坂田藤十郎襲名もあったし・・・。
だが、劇場は行くだけでやっと、という状態。
年明けからやたらと締めきりが続き、合間に取材やら打ち合わせやら。
そこへ穏やかな気持ちやら嵐のような気分やらが襲来してきて、
気持ちを切り替えられないまま、へろへろになっている。
波にもまれているようなこの状態、決して嫌いではないんだけど。
それでも、とてつもなく、せつなくなることもあって・・・。
せつない、というのは上質の感情だ、と以前、何かで読んだことがあるけど、
他人事ならいざ知らず、我がこととなると、そうもいかない。
せつなさも手のひらで転がせるようになれるといいのに、と思ったりもする。
締めきりに追われて、お尻に火がつき、沈みがちな気分を脱出。
結局、現実のほうが強いということか・・・。
ときに沈むことも悪くはない。自分を振り返れる時間になるから。
沈む、というよりは、あれこれ考えてもしょうがないことを
考えてしまうだけなのだけれど、そういうときはプラス思考になるはずもないから、
ついつい結果的に沈んでしまうのだろう。
それも自分の特質と考えるしかないのだけれど。
女友だちと話していて、「業が深い」と言われた。
私は彼女のほうがずっと業が深い女だなあ、と思っていたので、
笑いあってしまう。
自分のことは自分ではなかなかわからない。
というか、自分が思っている自分と、他人が思っている自分との間には
いつも何らかのギャップがある。
人間は時と場所に応じて、それなりに仮面をかぶるものだし、
仮面もまた自分である、と認識していればいいような気もする。
業の深い友人は、その業の深さ故、苦しんでいるのだが、
私は私で、自分自身をもてあましているようだ。
敬愛する女性作家の方のHPを見ていたら、
日記に「いくつになっても、自分とは何だろう」という苦悩から抜けられない、と
書いてあった。
うーん、いずこも同じ・・・と、ちょっとほっとする。
もう少しだけ要領よくいろんなことをこなしていければいいのだけど、
日常生活から逸脱したところで生きているので、
常に「どう生きるべきなのか」とか「人間って何?」とか、
そういう疑問や息苦しさから抜け出すことができない。
答が出ないことだから考えなくていい、ということにはならないだろう。
おそらく生きている間中、こういう苦悩からは抜けられない。
もちろん、誰もがそうなんだろうけど、
日常生活がしっかりしている人は、きっともう少し、
現実的な希望や現実的な悩みを抱えているのではないだろうか。
どちらがいいとは言えないけど。
人は誰でも、大きなものから小さなものまで、さまざまな問題を抱えて
生きているものだと思う。
そんなもんだ、常に充実感を覚えて生きているわけじゃない。
それでもふいっと、生きていることに虚しさを感じることがある。
思春期じゃないから、「ここはどこ? 私は誰?」と
思いつめて思いつめて、自分を追い込んでしまうわけではないけれど、
(今の年齢でそんなことしたら、本当に死ぬしか選択がなくなってしまう。
本能的にそういう追いつめ方は避けているのだろう)
ふと感じる、生きていくことの虚しさ。
おそらく将来への展望がないからだろう、とわかってはいるのだけど。
突っ走って突っ走って、ある日、ことりと息絶えたら、
それがいちばんの理想だけど・・・。
落ち込んでいるわけでも、鬱状態になっているわけでもないけど、
少しだけ「虚しい」という気分になった。久々だなあ、こういう気持ち。
孤独だとか寂しいとか、そういう気持ちにはけっこう慣れっこだけど、
虚しいってのはちょっとねえ・・・。
きっと運動不足。鍛え直そう。
東京三菱銀行とUFJ銀行が合併して、どうして三菱東京UFJになるのかなあ。
東京三菱UFJじゃないの? と、ちと不思議。
素人にはわからない力関係なのかな。
新年が始まって1週間、すでになんだかお疲れモードの私。
飛ばして仕事をしすぎたか・・・?
もとが怠け者だから。
というわけで、松の内に歌舞伎座に行かなくては、と行ってきた。
坂田藤十郎襲名興行。
藤十郎はんの「政岡」、あまりの気魄に度肝を抜かれ、
乳人の哀れさをすっ飛ばして、すごい舞台になっていた。
拍手するのも泣くのも忘れるくらいのド迫力。
芸の力のすさまじさを感じた。
昨夜遅くに、テレビでやっていた映画「恋人までの距離(ディスタンス)」。
タイトルは知っていたけど、たまたま最後のほうだけ見てびっくり。
わお、舞台がウィーンではないか!
あの街並みを見て、それだけで泣きそうになってしまった。
世界各国、あちこと行ったことがあるわけではないけれど、
最初にウィーンに行ったとき、なぜかすごく懐かしかった。
あの感じ、他の場所では覚えたことがない。
それ以来、ウィーンに行くと、いつも「帰ってきた」ような気がする。
映画のほうはどうやらウィーンで知り合った、
パリに住む女性と、アメリカに住む男性が恋に落ちるという
ストーリーのよう。
最後は半年後の再会を約して別れるのだが・・・。
去る者日々に疎し、という言葉もあるしなあ、
恋人までの距離かあ・・・と妙な感慨にふけってしまった。
サザンの曲で、「たまに会ってるだけじゃ、お互いのことわからない〜」とか
いうのがあったなあ。
「人はなぜ恋に落ちるのか」(ヘレン・フィッシャー著 ソニーマガジンズ刊)を
読んだが、なぜ恋に落ちるのか、やっぱりわからなかった。
わからなくてよかった、という気持ちもある。
本の中に「恋する気持ちは突然生まれる」という項があったけど、
確かにそう・・・。
私はむしろ、突然、気づくほうかもしれない。
感情の変化が先で、気づきがあと。
多少なりとも、その人に「ぐらぐらっ」ときているのは
わかっているけど、「あ、恋だったんだ」と気づくのは少し遅れる。
正月の間、つらつら考えていたのだけど、
私にとって、ヤバイ恋(常軌を逸してしまうほど惹かれる)の始まりは、
相手に、ある種の「狂気」を感じたとき。
いや、もちろん、その人自身が「アブナイ人」というわけではなくて、
潜在的な狂気を持ち合わせていると、
こっちが勝手に判断しているだけなんだろうけど。
それを感じたとき、ぐっと入り込んでしまう。
そして、こういう恋は、たいてい、あまりいい結果をもたらさない。
もしかしたら、それはこちらの狂気を触発されるということなのかもしれない。
恋なんて理屈じゃないんだけど、
私にとっては、やはりどこかで常に狂気に近いものを孕んでいる。
非常に常識的な中に感じる一瞬の狂気というのは、色気にも似ている。
いつの間にか新しい年になってしまっていた。
何のけじめもなく暮らしているので、新年の感覚もあまりない。
今日は昨日の続きであり、今日は明日への助走。
過去は切り離せないし、未来もまた、今日の自分の続きでしかない。
縁起でもないけれど、やはり私は、人生、どこでどうなるかわからないと
思っている。だから、今日1日を大事に過ごすのがいちばん。
運良く生きていれば、今日の積み重ねが未来へとつながっていく。
後悔しない生き方はできない。
でも、人は希望がもてなければ生きていけない。
「どう生きるか」というのは、いくつになってもわからないもの。
だからこそ生きていけるのかもしれないけど。