2005年12月

振り返らずに進んでいこう

1年を振り返って・・・なんていうのは、ガラにもないのでやめておくとして・・・。
芝居を始め、ナマ舞台には相変わらず数多く通ったけど、
今年は全体的に低調だったような・・・。
心に残っているのは、文楽「女殺油地獄」と、
サンカルロの来日オペラ「ルイザ・ミラー」くらいだろうか。
一方、落語は楽しかった。
若手で一押しの菊之丞さんへのインタビューもできたし、
小三治さんの会にも何度も通った。
寄席に行くと、「あれれ、この人、いいな」と思う噺家に出逢えるのも楽しみ。
ナマ舞台は、とにかく数多く通うしかない。
こちらの気力体力が充実していないと、舞台自体も味わえない。

本を1冊しか出せなかったのは不徳の致すところ。
来年はもっとがんばらなくては。

暴飲暴食

珍しく、忘年会という名のもとに人と集うことが増えて、
このところ暴飲暴食気味。
私はとにかく、目の前にあるものは何でも食べ倒してしまう。
食欲は衰えないものだなあ、と実感。
作るのは苦手だけど、食べるのは得意。

先日、美容院で雑誌を読んでいたら、
VOGUE2月号に、大事な友だちが書いた本が紹介されていた。
これは『女職人になる』(アスペクト刊)というノンフィクションで、
書いたのは鈴木裕子さんというライター。
彼女自身が興味のある「和」の世界で職人としてがんばっている
女性たちに焦点を当てて密着、なぜ職人の世界に入ったのか、
どうやって生計をたてているのか、将来の展望は、などを
本人から綿密に聞き出して、まとめているとてもいい本だ。
職人になりたい人はもとより、「自分の夢を実現したい人」
「一歩、踏み出せなくて迷っている人」に是非読んでほしい。
この本に目をつけるなんて、VOGUEの書評、やるじゃんって思った。

出会いと縁と運

今日、取材したある人が、「人間って出会うべきときに出会って、
ある時期をともにしても、必要としなくなったとき別れることになる」と
言っていた。
確かに恋愛関係において、「もうこの人から得られるものは何もない」と去っていく女性たちはいる。
でもそれは、恋愛を損得で考えすぎじゃないかなあ、と私は常々思っている。
恋愛から「得るもの」は、「結果」でしかなくて、
そのときは「好きだから一緒にいたい」というシンプルな気持ちが
いちばんいいのではないだろうか?

出会いは確かに不思議な縁に満ちている。
続くかどうかは、運とタイミングもあるだろう。
必死に努力すればいいというものでもないのが、人間関係、特に恋愛関係の
不思議なところでもある。努力が報われない、という理不尽さがある。
何もしなくても、うまくいくときはいってしまうものだ・・・。

誰かを思うとせつなくなったり、不安になったりするのは
恋している証拠なんだろうか。
恋ってイメージではきれいだけど、現実は決してきれいなものじゃなくて、
精神的にきりきりと追いつめられるようなものではないか。
長く続けば穏やかにシフトしていく恋があるのも、わかってはいるのだけど。
いくつになっても、恋とか男女の関係に関しては、素人でしかない。

映画「愛と殺意」

先日、テレビで深夜にやっていた映画「愛と殺意」。
1950年のイタリア映画で、監督 脚本はミケランジェロ・アントニオーニ
出演は、マッシモ・ジロッティ、ルチア・ボゼ、ジーノ・ロッシなどなど。
財閥の妻となった若くて美しい女性には、秘密の過去があり、それを探偵が
探っていく、というサスペンス。だが、一方で、彼女の現在進行形の秘密の恋が
むせかえるような濃密な色香に満ちている。
このモノクロ映画、なんともいえずいい。
夫の経済力は手放せない、だが愛する男とは心身共に離れられない。
すべてをほしがる女が次に求めるのは、夫がいなくなること・・・。
だが結末は・・・。という映画なのだが、とにかくルチア・ボゼの美しさが光る。
昔のイタリア映画って、ほんと、なんともいえない雰囲気がある。

鬼が笑う?

すでに来年出る本の打ち合わせが進んでいる。
うまくいけば=私ががんばれば、ということだが、来年は
本が4冊くらい出せそう・・・。
今年は怠けて1冊だったから、なんとか来年、帳尻を合わせたいところだ。
目標は毎年2冊以上、なのだけど、なかなか思うようにはいかない。
思うようにいかないのもセ・ラ・ヴィなんて言ってると、
ますます怠けてしまうばかり。

雑誌の仕事ばかりしているときは、今よりずっと忙しくて、
締めきりを何本やれるか、なんて限界にチャレンジしている状態だった。
今は通常のライター仕事が減ったせいもあって、
時間との勝負、ということはあまりない。
だが、そうなると別のプレッシャーがかかってくる。

今日は某社の編集者ふたりと食事にカラオケ。
これって打ち合わせというより遊んでる状態か。
だが、編集者との親睦というのは、本当に大事だ。
特に本の場合、編集者と密接な関係、本音が言える関係にならないと、
なかなか納得のいくものは書けない。
編集者に媚びる気はないけれど、互いの理解は絶対的に必要。
リラックスした場でこそ、人は本音を語る。

討ち入りの日かあ

もう14日になってしまった。
赤穂浪士討ち入りの日、だ。

私は決して思想的には、右寄りでも左寄りでもないのだが、
人としての「志」や「心意気」「矜恃」をもった人を尊敬する。
現代には、あまりにそういうものが少なくなってしまったから。

先週は、「歌わせたい男たち」「母・肝っ玉とその子供たち」と
芝居2連発。
前者は「君が代」をめぐる教職員たちの物語で永井愛さんの芝居、
後者は戦争を生き抜いた肝っ玉母を描いたブレヒトの名作。
いずれも思想、戦争などを考えさせられた。
私は個人的には君が代は歌わない。
たまに祝祭的意味合いのあるオペラなどで、
事前に君が代を演奏、観客を立たせることなどがあるが、
私は立たないし歌わない。
そのあたりにはまだ抵抗を残している世代なのかもしれない。

久々の・・・

以前、取材で知り合った人が電話をくれた。
あれこれ話している中で、「長いつきあいができればいいなと思って」という
一言が、ものすごくうれしかった。
出会いをこうやって縁にしていこうという人に触れると、心が温かくなる。
こちらから取材対象者にいつまでも拘泥していては悪いな、と思うから、
なかなか長いつきあいにはなれないものだけど、
向こうがそう言ってくれるのは本当にうれしい。

去る者日々に疎し、というし、私はどこかで人に対する畏れがあって
距離感を測るのに四苦八苦してしまうので、
相手がすんなり近づいてくれるのは、とてもありがたい。
職業柄か、人を観察するのは好きなんだけど、
自分から近づくのは、実は苦手だったりする。

近所づきあいも親戚づきあいもないから、こういう関係はほっとする。
これもまた、「名前のつけられない関係」なんだろうな、と思う。

またまた号泣

今日はファジル・サイのピアノコンサート、
その後、銀座で、例のフェスティバル・松竹の古い映画「祇園の姉妹」を観る。
溝口健二という人は、小津安二郎と比べられた監督。
私自身は、どちらかというと溝口ファンでもある。
あの長回し、そして、なぜか画像に色気がある。
色気、というのはもちろん、抑えたところにも表現されるわけで、
それは、ある種の「品」とも切り離せない。
露出の高い服を着ていれば色っぽいか、というとそうではないのと同じこと。
ストイックなところに表れる色気、というのもある。
色っぽさ、というのは「その人らしさ」だという説もあるから、
自分自身の生きる道筋がはっきりしている人ほど、色気のある人ともいえる。

日曜深夜の私の定番テレビ番組、日本テレビのノンフィクション。
今日は、「特攻隊」についてやっていた。
実は私はこの話題には弱い。知覧、という言葉を聞いただけで涙ぐんでしまうほど。
今日のこの番組、いつもよりずっとお涙頂戴的な作りだった。珍しい。
83歳になるとある女性が主人公。60年前、婚約者が特攻隊員になったことで、
一度も結ばれることがないまま彼は還らぬ人となる。
彼が特攻隊員として選抜されたことを知り、彼女は彼がいた三重県へおもむく。
だがときすでに遅く、彼は九州へ向かったという。
彼女は、彼が残した宮崎県都城という言葉だけを頼りに、汽車を乗り換え、
九州へ。ところが都城に着いたとき、彼の飛行機は旅だったあとだった。
しかし、実は彼が旅立った先は、知覧。
ここで天候待ちをしていたのだ。
すれ違いの連続、そして彼は彼女に遺書を残して片道燃料、
250キロの爆弾を載せた飛行機を操縦していく。

彼女は彼の遺書に「過去を振り向くな」とあったため、
悩み抜いた末、10年後に結婚、18年連れ添って夫を看取ったという。
このあたりの事情が、ちょっと不鮮明。
夫となった人は、彼女にそういう思い人がいることを知っていたのか。
結婚生活はどうだったのか。

そのあたりを克明にしすぎると、「60年の恋」というテーマがぼけるせいだろう、
彼女はひたすら、特攻隊員として命を散らした彼を思い続けている、ということに
なっている。そのあたりはしかたがないのか。
彼女は今も、彼が家に来たときの煙草の吸い殻を大事にもっている。
もちろん、彼への思いが月並みなものではなかったことはわかる。

何より泣けたのは、その特攻隊員となった彼の「遺書」だ。
感情はひたすら抑えている。
だが、最後に彼女の名を呼び、「会いたい、話したい、無性に」と書いてある。
23歳の若者が、これから数時間後に命を落とすことがわかっていながら
愛しい女性に書いた手紙。
それだけで、私はひたすら号泣。

先の戦争で、私は、いるべきはずの「おじ」を失っている。
粋で洒脱、浅草界隈ではちょっと有名な遊び人だった、という。
あまりに遊び人だったので、招集されないうちに
親が志願兵として軍隊に入れてしまった。
そして東南アジアで死亡。
親の嘆くまいことか・・・。
あれほど戦禍が激しくなるとは思っていなかったのだろう。
誰も彼もが、先を見通せなかったはずだ。情報統制の中では。

特攻隊も人間魚雷も、今の常識からみると常軌を逸した行動だと思う。
だが、当時はそれが正しい道だと信じられていたのだ。
そのことが非常に重い。

講習会、もしくはトーク番組

リンクも貼っている友人、「Shinobu」さんが
始めようとしている、「大人の学校」というのがある。
その講習会、というのか、
トーク番組(いずれネットラジオで配信される予定)というのか、
そのゲストに招かれて、長い時間、おしゃべりしてきた。
いやー、とっても楽しかった。
聴衆は男女半々で合計20人。
こじんまりとした会だったから、来ている人たちにも多少は話を聞けたし、
私も言いたい放題。編集が大変だろうなあ・・・。

テレビもラジオも何度か出たが、テレビはやっぱりつらい。
収録だと、1時間近く話したのに、たった1分くらいに編集されているし。
その点、生放送のラジオはとても楽しい。
でも、今日みたいな会がいちばんおもしろいかも。
もっと来ている人たちに話が聞けたらよかったのだけど・・・。
ちなみにお題は、「抱きたい男、抱かれたい男」。
男性たちが、性に対して臆病になっている昨今、
なんとかもっと色気のある大人たちよ、増えよ、というのが「Sinobu」さんの狙い。
私もそれには賛同するので、ついつい力の入ったしゃべりになってしまった。

セックスそのものをするかしないか、というのは二義的な問題。
男も女も、もっと色気をもとう、というのが趣旨だ。
イタリア男、とまではいかなくても、
もっと男性が女性の目を意識しておしゃれしたり、
あるいはもっと文化に接したりしてもいいのではないか。
ただの友だちでも知り合いでも、あるいは通りすがりであっても、
もっと互いに自分の性、相手の性を意識してもいいのではないか。
そして、特に男たちは、
自分たちの「感情」や「気持ち」をもっとストレートに言葉にしても
いいのではないか。
もはや沈黙は金、という時代ではないのだから。
言葉が伝える役割は小さくても、
やはり「話さなければ分かり合えない」ことは多いはずだから。

個々人が、大人の色気をもたない限り、
色っぽい社会、つまり成熟した社会にはなっていかない。

嫌な事件が多い・・・

子供が犠牲になるような、なんとも言えない嫌な事件が立て続けに起こっている。
子供を殺した犯人は、無条件に即刻死刑、でもいいとさえ思えてくる。
なんだかなあ、世の中全体が病んでいるんだろうか。
あまりに痛ましすぎる。
事件の結末が見えてしまったのに、
被害にあった子供の写真をこれでもか、と流すテレビもどうかなあ、と思う。
探している段階ならいざ知らず・・・。