No.106の記事

圓朝祭り

今日は千駄木の全生庵へ。
ここは山岡鉄舟が明治維新で殉職した志士たちのために建てたお寺。
今も残る名作落語を次々と世に送り出した名人・圓朝の
お墓がある場所でもある。8月11日は圓朝忌。
今日は、そこでの圓朝祭りに出かけてみた。
いやー、すっごい人出。
あまりの暑さにひよって、遅く出たのがかえってよかったようだ。
早い時間は人数制限などがあって大変だったらしい。
午後遅めの時間でも、人出はすごかったけれど。
菊之丞さんもポップコーン売りで汗だくになっていた。

境内をちらちら見て、圓朝祭り恒例のTシャツを買い、
暑さにめげて休憩所へ。とはいえ、休憩所も炎天下。
境内の奥にある墓所で、圓朝と山岡鉄舟のお墓にお参りする。
山岡鉄舟のお墓の立派なこと。戒名が大居士になっていたのだが、
院居士と大居士って、どっちが上なんだろうか。

その後、新宿の末廣亭に行こうかと思っていたのだが、
暑くてでろでろに溶けそうだったので、
友人たちと、ほとんど避難するように中華料理屋へ。
そこで、「好きだった人を好きでなくなってしまうのはなぜか」で
盛り上がる。
みんな大人で、ある程度、せつない経験を積んできているからこそ
できる話かもしれない。
帰ってきてからも、しばしそのことを考える。
好きでいることは、それほどむずかしいことなのだろうか。
好き=強烈に欲する、ということであれば、いつか落ち着く時期は
確かに来てしまうだろう。渇望しているからこそ欲しているわけで、
何年もつきあって、「渇望」が薄れれば、欲する気持ちも薄まっていく。
だが、それと「好きでいる」こととは別なはず。
先日も別の人と話したのだけれど、
「ずっと好きでいるためには、いちばん好きな時点で別れるしかない」と
その人は言っていた。もちろん、理屈としてはそのとおり。
もっと「好き」でいるためには、おそらく肉体関係をもたないほうがいい。
そういえば、中里恒子に、そういう不倫の小説「時雨の記」があった。
関係をもたないからこそ、思いが永遠に続く、という話。
吉永小百合さん・渡哲也さんで映画になった。
その記者会見で、吉永さんは、「私なら関係をもつと思います」と
大胆なことを言っていたのが記憶に残っている。
私も同感。とてもいい小説ではあるのだが、好みの問題だろう。
私には、高橋治さんの「風の盆恋歌」のほうが、ある意味、リアリティがある。
これはこの種の恋愛小説の名著。
めったに会えなくても、濃くて深い関係は築ける、ということが
リアルに感じられる小説だ。せつない話だが。
何度読んでも、本を開いて3ページ目には、もう泣けてくる。

ただ、ずっと好きでいること、思い出をきれいに残すことが
どれほど人生にとって重要なのかは、また別の話だろう。
私はリアルでないことはいらない、と思うたち。
写真は嫌い。思い出は頭の隅にとっておけばいい。
それはきれいなものである必要などない。
「今」が自分にとって充実した一瞬であればいい。
なーんて言いながら、充実すればするほど、
その「今」が継続していくことを願ってしまうのは
潔くないのだが本音でもある。