今日は大好きな友人カップルと3人で新国立劇場のオペラ「フィガロの結婚」へ。
実はウィーンで正統派演出のフィガロを見てきたばかりなので、
気分的に萎えないか、自分でも不安だった。
友人カップルはオペラ初心者、彼女のほうは初めてということだったが、
「アンサンブルがおもしろい」とか「生の音楽がすごい」とか、
しかも演技と歌のことまで言うので、その鋭さにびっくり。
彼のほうもモーツァルトを始め、オペラはなぜ現代にまで生き残ったか、という
話をするなど、私もオペラを見始めた当時の新鮮な感情を思い起こすことができた。
正直、オケは(指揮の問題か)ちょっとたるかった。キレがない。
伯爵にはもうちょっと威厳がほしいとか、細かなことは多々あったが、
全体としては、やはり前シーズンの再演だけあってよく練れていた。
友人たちはとても素敵なカップルで、大好きな人たち。
彼らが楽しんでくれたようだったのが、なによりうれしかったし、
そのあとの食事の楽しかったこと。
初めてオペラを観たのは、もう17年ほど前になるだろうか。
私は音楽的素養もないし、特にオペラの歴史を勉強したわけでもないので、
まったく自分の勘だけを頼りに「好き嫌い」を感じてきた。
数年見ただけでも評論家のような感想を述べることができる人もいるのに、と
思うと、勉強不足が情けなくなるが、もともと勤勉でないのでしかたがない。
それにオペラはやはり私にとっては、なにより「人間ドラマ」であることが
最優先。人間の情や業が描かれているものが好き。
今日のフィガロで、私は不覚にも、伯爵夫人の孤独を感じて涙ぐんでしまった。
若く愛しあっている、今日結婚するふたり、
「あの愛はどこへ行ってしまったの」と嘆く伯爵夫人。
最後はハッピーエンドとはいえ、あの伯爵のことだから、きっとまた女性を
追いかけ回すはず。
まあ、でも今日の舞台の雰囲気では、
わりと「耐える女性」という感じではなかったけど、
それでも若さを失いつつある女性の本質的な孤独感、
というのに深く共感してしまった。
それだけ私も年をとったということだろう。
若さだけにしがみつくつもりはないけれど、若さには確かに、そこにしかない
輝きがある。若いときにはそれに気づいていないところが、なんともいえないけれど。
私自身、若いときは「若さ」が嫌だった。
人間って、なかなか合理的には生きていけないものなんだなあ、と痛感。
今日も風邪っぽくて調子はイマイチだけど、どうやら熱は下がったようなので
立川談志一門会を聴きに、吉祥寺の前進座劇場へ。
前座もそのあとの噺家さんたちも、どうもイマイチ、私にはぴんとこなかった。
そしてお待ちかねの談志。
最近、私はこの人の噺を聴くと、なぜかピカソのキュビズムを思い出す。
通常の噺に飽きて、噺をばらばらと分析して楽しんでいる世界。
何を言っても、持ち前の愛嬌で許されてしまうところがあるから、
ブラックジョークもそれほどきわどく感じられない。
客も「談志だから、笑っておかなければ」という強迫観念があるように思う。
かつて古典を、古典とは思えないような現代感覚で、
それでいて、すばらしい古典として聴かせた、あの談志はもういないのかな、と
思ってしまう。
自分でも通常の落語会では浮いてしまう、と言っていたけれど、
別世界へ行きつつあることがいいのかどうか・・・私も悩んでしまった。
こぶ平が正蔵を継ぎ、ドラマでタイガー&ドラゴンなどをやったりして
落語がブームになりつつあるような印象を受けるが、
今現在、客が聴きたい落語はどういうものなのだろう、
噺家が聴かせたい噺はどういうものなのだろう。
歌舞伎のようにきっちりした型があるわけではないだけに、
噺家と客が真剣に考えていかないと、落語は後世には残らないかもしれない。
そんな危機感がある。
ま、私が危機感を抱いてもしょうがないんだけど・・・。