2005年2月

髪型変えて気分も変えて

久々に美容院へ。実は私、女の端くれでありながら美容院が大嫌い。
同じ場所に座っているのが苦痛でたまらない。
だが白髪は気になる、しかも気候のせいか地肌も乾燥してひび割れ状態。
そこで新しい美容院へ行ってみた。
ドクターショッピングならぬ、美容院ショッピングばかりしている。
本当は同じところで、好みや髪質をよくわかってもらったほうがいいのだろうけど、
ちょっと気に入らないことがあると、私はすぐに美容院を変えてしまう。
ただでさえ、美容院の数時間はある意味、拷問なのだから、
少しでもよりよりところへ流れていこうとするのはしかたがないだろう。
ものぐさでめったに美容院に行こうとしないくせに、日々の手入れも悪いくせに
美容院に「きれいにしてくれなきゃイヤ」という典型的なわがまま客である。
最近はネットで見つけて、メールを出し、
その返事から行こうかどうしようか決めることが多い。
今日行ったところは、とりあえず店の人の感じも技術もとてもよかった。
頭皮のマッサージをしてヘアマニキュアをしてカットして・・・ほぼ4時間。
やはり拷問には違いない。
でも髪型変えると、気分も変わる。そろそろ春だもんね。

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能はわからん

自分を「能なし」と感じた日。というのはだじゃれで、今日は能見物へ。
いやあ、何度見ても、能のおもしろさというのがイマイチわからない。
国立能楽堂で、仕舞「求塚」と能「山姥」。
これは企画公演で、ロウソクの灯りだけでの舞台。
パンフレットを読んでいれば、あらすじはわかるのだけれど、
そのシテがうまいのかそうではないのか、どこにどういう味があるのか、が
まったくわからない。
見ているうちに「目」ができてくるのかなあ・・・
能は年に数回行くかどうか、という感じだから、いつになっても
おそらく「目」はできないだろう。
私がナマ舞台を好むのは、そこに「人間」が描かれているから。
オペラにしろ歌舞伎にしろ文楽にしろ・・・ましてや落語は「人」そのもの。
狂言もそうだ。
だが、能に「人の感情」というのをどこまでどのように見いだせばいいのか。
それとも、能はそういったことを排除して成立する芸術なのか。
そのへんがよくわかってない、ということが今日よくわかった。
どんなものにせよ、長く密に通わないと、その「よさ」はわからないと思うが、
正直言って、私は自分が「能」を好きかどうかもよくわかってない。
好きかどうかわかるためには、頻繁に会わないとダメかも。
うーん、男女関係に似てるか?
男女関係なら、一気に距離を縮めることも不可能ではないけれど、
能と私の間は距離が遠いわ〜。

歌舞伎はおもしろい

午後から吉祥寺で取材をし(今日は受けるのではなく、する方。慣れているので
するほうが気が楽)、それから銀座へ。
お腹がすいて、天丼「まつや」で季節の冬天丼を。
私、毎季節に一度は、ここの天丼を食べてしまう。安くてうまい。
しかし、大盛りにすればよかったかなあ、とちょっと後悔。大食いだ。
午後3時半くらいの時間帯なのに、店はけっこう混んでいた。
近くにいた男性より早く食べ終わり、そそくさを店を出て、
今度は近くのコーヒーショップへ。もちろんここも180円コーヒー。
のんびり煙草を吹かしてから、いざ歌舞伎座へ。

歌舞伎の夜の部、今月は3本。
「ぢいさんばあさん」「野崎村」「二人椀久」
中でも野崎村は注目。人間国宝がずらり。
いちばん若いのが72歳の田之助、お染めの雀右衛門は84だか5だか。
富十郎、芝翫、鴈治郎はそろって70代半ば。
話は若い男女のことなのに、この年齢。しかし、それでも違和感がないのが
歌舞伎の「芸」の力だろう。
お光の芝翫はとてつもなくかわいかったし。
見るほうも、もちろん役者の年齢はわかっている、それなのにそこに十代の
純な田舎娘をきちんと感じ取ることができる。
役者と客の妙な共犯意識こそが、歌舞伎の醍醐味なのかもしれない。
もちろん、そこには役者の圧倒的な「芸の力」がなければならないのだが。

久々に晴れ!

今日は東京もようやく晴れた。
昨日あたりは芯から冷たくなるような寒さだったから、今日はほっと一息。
午後から某誌の編集長、編集者と女3人でランチ。
おいしいイタリアンだった。真っ昼間から下ネタで盛り上がる。
その後、別の出版社へ。先週受けた某誌・取材のページに
写真を載せてくれることになり、その撮影をしたあと、しばし雑談。
さらに同じ出版社の別の雑誌の編集者・ライターさんとさらに雑談。
ここでもエッチ話に花が咲く・・・(咲かせた、というべきか)。
私たちにとって、こういう雑談はとても大事だ。
今はメールで原稿をやりとりするから、打ち合わせも電話だけで、
仕事はしても編集者に会わなかった、ということが多々ある。
だが、本当は、こういった雑談から企画が生まれたりするものなのだ。
どんな仕事も、実は人との関わりからでしかいいものが生まれない、と思う。
そこまでですでに夕方5時。

さらにそこから某新聞社へ。コメント取材を受ける。
今日もたくさん初対面の人と会った。

某新聞社の近くのビルで、偶然、ドーナツ・プラントを発見。
実は私、ここのドーナツが食べたかったのだ。
白金台と大手町に店があるのは知っていたが、
たまたま通りかかったビルにあったとは。
うれしくて、ついドーナツを3つ買ってしまった。
帰宅して早速食らいつく。生地はおいしいけど、ちょっと甘い。
今日は、甘いドーナツしかなかったのでしかたがないが。
砂糖がついていない、もっとプレーンのドーナツがあったらいいのに。
と思いながらも、バニラ、チョコ、クランベリーの3つを完食。
実は私、ドーナツモンスター。ドーナツが大好き。
オールドファッションタイプの固いものより、どっちかというと
昔ながらのふわふわパンみたいなドーナツが好き。
そういう意味でも、ドーナツ・プラントの生地はうまい。

1週間を振り返って

この1週間は、初対面の人にずいぶん会った。
こういう仕事をしていると、「人に会って話すのが好きな」人種と思われがちだが、
実は私は人が怖い。もちろん、年齢を経て、多少の修羅場(?)も乗り越え、
つまりは世慣れてきたところがあるから、
人が怖いなんておくびにも出さないのは当然。
だけど、世の中人ほど怖いものはない、と今でも思っている。
人と会うのは嫌いじゃないから、こういう仕事も続けて来たのだろうけど、
内心はやはりいつも緊張しているのだと思う。
だから、「人に会うのが大好き、人に接するのが大好き」なんて言う人を見ると
羨ましくなったりすることが多々ある。
つまりは、今週は初対面の人にたくさん会って「疲れてしまった」ということだけが
言いたいような気もするのだが・・・。
ただ、「人は怖いが、人と接するのは悪くはないもんだ」ということも、
最近、つくづく感じている。
以前は「仕事で会った人は仕事以外の関係をもってはいけない」なんて思っていたけど、今は、どんな場でも出会いは出会い。気が合うようなら、食事に行ったり、
麻雀したり、ということを積極的にするようになっている。
人生の中で知り合う人はごくわずか。気が合う人はさらにわずか。
縁があったなら、その縁をなんだかずるずるひきずっていってもいいじゃないか、と
思うようになっている。これってトシとった証拠かも。

まあ、上記で終わればほのぼの〜という路線なのだけど、
ひとつ、あれれと思うことが。
そのたくさん会った人たちの中で、なんと4人もの男性たちが、
「僕、いくつに見える?」と聞いたのだ。信じられない、あり得ない。
私は「あたし、いくつに見える〜?」という女をアホだと思っていた。
「おめーがいくつに見えようがどうでもいいよ」と内心、こきおろしていた。
そういう女の子に向かって鼻の下を伸ばす男にも、「おいおい」と思っていたのだ。
それなのに〜、もはや時代は、
「僕っていくつに見える?」と男が言うようになっていた。
30代から50代まで、見事に世代関係なく、彼らは言う。
もちろん、世間話の中でのこと。彼らが私を口説いたわけではない。
若く見られたいのは、女の特権。男は「履歴書」である「顔」がものをいうのでは
なかったのかしらん。
若く見えれば男もうれしい・・・っていうような単純なことなのか、
男たちが女の意識に近づいてきているのか・・・。
しかもその、「いくつに見える?」という媚びた言い方がどうにも受け入れがたい。
言われるたびに、「ゼロか100」とでも言ってみたいと思うのだが、
ついつい適当な数字を言って、それが実年齢より年上であることが多く、
(もちろん、こっちだって気を遣ってサービスはしているつもり)
「実際は、もっと若いんだぴょーん」なんて男をよろこばせてしまう。
年齢なんて、どうでもいいじゃん、っていうのが本心なんだけど。

あれこれ考えていたら、ふと気づいた。
この4月で、私はフリーライターになってちょうど20年なのだ。ぱちぱち。
まあ、よくも飽きずに飽きられずにやってきたなあと思う。
フリーライターになって、と書いたけれど、私は大学を出てそのまま
フリーランスのライターになった。就職ができなかったからだ。
2浪のあげく、某社の数学のテストは「会社史上初の〇点」という名誉をいただき、
あえなく落選。じゃなくて不合格。
一応、いくつか出版社は受けたけど、全部そんな感じで受け入れてもらえなかった。
私自身、会社に適応する能力は皆無だと思うから、それでよかったのかもしれないが、
当時は落ち込んでいた。
だってライターなんて名ばかり、仕事がないのだから。
少しずつ仕事がもらえるようになったのは、大学時代の先輩たちのおかげ。
そう、だからやはり「人の縁」というのは大事。
なんだか今日はぼんやりそんなことばかり考えてしまった。

忙しかった〜

午後から(私が活動しはじめるのはだいたい午後)某男性誌から取材を受け、
場所を移動して原稿の打ち合わせを1本。
さらに某週刊誌の取材を受ける。
そのライターさんと麻雀の話で盛り上がってしまった。
たまたま彼も明治大学出身。
明治大学出身のマスコミ関係者って、けっこう多い。

夜はオペラシティで、鮫島有美子さんの「夕鶴」を拝聴。
鮫島さんは私の憧れの女性。
実は去年、とある取材で数日間、ご一緒したことがある。
その前にも何度か取材で面識があったのだが、本当に素敵な女性だ。
最初にお会いしたときから、そう感じていた。
てきぱきしていて明るくて、それでいてどこかふわりとしていて・・・
言うべきことはきちんと言うのだけど、言い方が論理的だから、
誰もが納得してしまう。
今回の「夕鶴」は、オペラと演奏会形式の中間、という感じ。
ハードなスケジュールで全国を回ってきたにもかかわらず、声がちっとも荒れてない。
姿も動きも、頭のてっぺんからつま先までぴんと神経が張りつめている。
このオペラは何度か見ているが、再演のたびに洗練され、
なおかつ鮫島さんの表現力は豊かに深くなっている。
歌手にとっても、公演を重ねていくということは、役がどんどん自分と近づいて
いくことになるのだろうか。
「哀れなつう」「かわいそうなつう」ではなく、強さももったつうになっている。
木下順二さんの芝居では山本安英さんの「つう」が印象に残っている。
芝居のほうのつうは、とても哀れでかわいそうだった。
若いころに見たせいもあるのかもしれないが。
同じオペラを見続けていくと、観る側もトシをとっていくから、
どんどん感想が変わっていくのかもしれない。
小説にしろ芝居にしろオペラにしろ、だからこそ芸術は「飽き」とは無縁なのだろう。

本当はこのオペラのあと、さらに学生時代の友人と飲みに行く予定だったが、
さすがに仕事がつまってしまい、断って帰宅。
ところが帰宅してからが、なかなか仕事がはかどらない。
この悪癖をなんとかしなくては・・・。

取材をふたつ

今日は取材をふたつ受けた。ひとつはなんとテレビ。不倫についてのコメントだ。
関西地域限定で助かった〜。テレビはナマも含めて何度か出たけど、やっぱり苦手。
もうひとつは男性週刊誌。こちらも不倫に関して。
映画「東京タワー」の影響もあるのか、
男性誌女性誌問わず、不倫の企画が多いようだ。
おもしろ半分の企画もあるので、私としては痛し痒しという感じ。
多くの人たちは、まじめに「恋して」苦しんでいたりするものだから。
「人を好きになってしまった」という事実と、「家庭をもっている」という事実。
そのふたつの事実と現実の間で、多くの人はつらくなっていく。
それを「もてていいじゃん」と片づけるのは間違っているし、
単なる興味本位でとりあげるのも、ちょっと違う。
もちろん、戦争などで生命の危機を脅かされるような状況だったら、
愛だの恋だの言ってはいられない。
だから平和な状況でこそ起こり得ることなのかもしれないが、
下手したら恋ひとつで、人は正気を失ったり、
ときには自らの命を断ったりするわけだから、
そう簡単に「恋くらいどうってことない」とは言いきれない。

明日も男性誌の取材をひとつ受けることになっている。

払い戻し〜オペラシティへ

今日は新国立劇場のオペラ「ルル」を払い戻してもらって、
隣のオペラシティコンサートホールでミシェル・コルボ指揮フォーレのレクイエム等を
聞いた。なんと素晴らしい選択!
古楽器は使っていないのだけど(一部工夫されている楽器があるらしいが)、
楽器を超えた温かな音楽に包まれた。
ヴェルディ、ヘンデル、フォーレの3曲。
今日はコルボの誕生日だそうで、楽団員がみんなでハッピーバースディを
歌ったのも印象的。

ふっと思い返すと、どうも土曜日のチェネレントラ、
私は心から楽しめてはいなかったと思う。
ロッシーニのオペラブッファに不可欠な「楽しさと迫力」はなかったもんなあ・・・
土曜日はあげくに、友人たちと行ったタイ料理の店で
毛皮のコートにビールをこぼされてしまい(店員がビール瓶を倒した)
さんざんだった。
クリーニング代を弁償してくれる、というのはいいんだけど、
クリーニング屋に聞いたら、なんと3週間かかるという。
今期はもう着られない・・・えーん、せっかくジーンズに合わせて着てたのにぃ。

オペラから落語へ

昨日寝過ぎたので、今日は朝から原稿直しを送り、
さらに10月のオペラのチケットを電話予約。
10時からの予約なのに、つながったのは午後1時。
3時間、携帯電話を1秒たりとも離さず、ようやく予約がとれてほっとする。
いつもながら、チケットとりは一苦労。

今日はオペラ「チェネレントラ」と、立川談志の落語独演会の2本立て。
ハードだった〜。
チェネレントラは、ロッシーニらしさが出ていたと思う。
歌手たちに大拍手! あの早口言葉は大変だ。
談志のほうは会場がいけなかったのか、非常に聞きづらかった。
落語会に2000人以上はいるホールをもってくるのがどうかしている。
いくら談志とはいえ、たったひとりでそれだけの客を吸引する力はない。
まして舞台の上にスクリーンがふたつもかかっていては、雰囲気もだいなし。
つくづく、マイクのない寄席はいいなあと思う。
演目は「子ほめ」と「文七元結」。
私は個人的にはどちらも感心しなかった。
子ほめってのは、もともとたいした話ではないけれど、
談志が話すと、お間抜けな感じがあまり出ない。
「文七元結」のほうは、娘のいじらしさ、廓の女将さんの心意気、というものが
やはりなんだか違うんだよな〜という感じ。
話の運びもややくどい。
本人も「この話は好きじゃない」と言っていた。好きじゃない話を聞かされる客は、
どうしたらいいのだろうか。
話が多少論理的でなくても、強引に客を泣かせてしまうような力業が私は好きだ。
志ん朝の「文七元結」は、号泣させられた。
こうなると、好みの問題かもしれないが・・・

ダンスとは??

投稿者:さなえ 投稿日:2005/02/11(Fri) 02:46


アダム・クーパーの「危険な関係」を青山劇場で見た。
フランスの作家・ラクロの同名小説をいかにダンスで伝えるか。
話の軸を絞って、肉体表現で見せるというやり方はよくわかるし、
意図としては素晴らしいし、振付もエッチで好みだし・・・だけど、最終的に満足できる舞台になっていたか、といわれると、考えてしまう。
どことなく、すべてが中途半端のような気がしてしまって。
ロイヤルバレエ出身者だけに、もちろんクラシックバレエの振付の残存も。
かと思えば、ラストシーンはまるで前衛劇・・・
ところどころで、驚くような肉体表現がある一方で、
「拠って立つところが希薄」な舞台とでもいうのだろうか、そんな感じが残る。
考えてみれば、クラシックバレエや歌舞伎などは、それだけできちんとあるジャンルの
中におさまっているから、楽なのかもしれない。
自ら振付や演出、主演までするクーパーの才能は確かにすごい。
いわばジャンルを超えた表現の世界。
あとは好みの問題なのかもしれないなあ・・・と考えさせられた。

楽しい晩餐

今日はライター、編集者などが10人近く集まって、
大久保のおいしい韓国料理屋さんへ。
初対面の人たちもいたし、いったい、何の集まりだったかわからない状態だったが、
楽しくておいしかった。それがいちばん!
しかし、私たちの会話のほぼ8割は下ネタではなかったか!?
周りのテーブルの客が引いていた・・・ような。

帰宅して、録画しておいた「スーパーテレビ」を見る。
山岳レスキュー隊のドキュメント。
泣けた〜。
私、このところ、レスキュー隊に異常な関心をもっている。
特に東京消防庁のハイパーレスキュー隊。
この名前を聞いただけで、どきどきしちゃう。
ただひたすら、「人の命を救いたい」と願っている人たちって、
どういう人たちなんだろう・・・

よれよれ

朝までに雑誌の原稿1本と、構成を1本直してようやくベッドへ。
朝といっても寝たのはお昼近く。夕方には起きようと思ったけど、
あえなくダウンで、起きたのは夜7時。
去年の夏から秋にかけて、週に数回ジョギング&ウォーキングをしていて
かなり体調がよかったので、また始めようと思っているのだが、
どうもこのところ、時間がとれない。
そこで・・・筋肉トレーニングクッションなるものを買ってしまった。
固いクッションで、これを胸のあたりで両側から押したり、
足に挟んで押すことで、筋力を鍛えましょう、というもの。
数えてみれば、狭い家の中に、いくつ運動器具があることやら・・・
体を鍛えたりダイエットしたりってのは、本当にむずかしい。

先日来、「古典落語」についていろいろ考えている。
噺家の中には、古典が古典のままじゃいけない、と言って
いろいろな試みをしている人たちもいる。
たとえば一銭五厘を「円」で言い換えたり、時間を今風にしたり。
だけど、私は実はそんなことはあまり意味がないのではないかと思っている。
江戸時代当時、百両というお金が今に換算するといくらになるか、というようなことは
たいしたことではなく、それが「大金」であることさえわかればいいのではないか。
むしろ大事なのは、長屋の風情であったり、江戸の粋だったりするのではないか。
もちろん、今の時代に江戸を知っている人はいないのだから、
正確に表すのはむずかしいだろう。
だけど、落語というものは、古典である限り、古典らしさがほしい。
なぜなら、古典落語にあるのは、人間の変わらない本質だから。
ちょっとしたずるさであったり、人がもともともっている弱さや間抜けさだったり。そそこに現代の感覚を持ち込むと、かえって話がわからなくなるような気がする。
今を生きている人間が演じるのだから、嫌でも現代感覚は入ってしまう。
歌舞伎でもオペラでもそうだけど、あえて「現代」を持ち込まなくても、
演じている人たちが現代人であることで、
すでに現代は持ち込まれているのではないか。
混乱してきて、うまく整理がつかないのだが、古典といわれる芸能・芸術が
どこまでどうやって生き残っていくのか。
特に落語のように、噺家の技術ひとつにかかっている場合、
非常にむずかしいと思う。

今日も今日とて

夕方から大好きな友人と(ちなみに女性)
築地本願寺のブディストホールにて、立川談春の落語会へ。
「お化け長屋」「寝床」の2本。
この人、口跡がいいのと勢いがあるので、目を離せない噺家さん。
お化け長屋もおもしろかったけど、なんとなく江戸の長屋の雰囲気が感じられない。
おそらく頭のいい人だから、アホも理屈でやってしまうところがあって、
「貧乏庶民の笑っちゃうような小ずるさ」が出ない。
寝床はおもしろかった。義太夫好きの大店の旦那、雰囲気がある。
ただ、いつも思うのだけど、肝心のオチの直前とか、決めぜりふの前とかで、
ときどき「噛んで」しまう・・・のが難。
でも、これから最も期待できる古典落語の話し手であることは確か。

その後、友人とお鮨屋へ。
しこたま食べた〜。
あ、落語会に行く前にケーキも食べてしまったのだった。
さてと、これからまた原稿を・・・

今日も寒い

電車の中は、マスクの人だらけ。花粉症か風邪か・・・どっちも苦しそう。
今日は某週刊誌の取材を受ける。
久々に会うインタビュアーの女性、少し痩せて素敵になっていた。
話はやたら盛り上がり、気がつけば3時間もたっていた。

私自身もインタビューをするのが仕事なのだが、
いつの間にか受ける側にもなっている。
最初は気持ちの切り替えがつかず、困ったりしたが、
自分が書いた本のことくらいにはきちんと答えないと・・・と
最近は聞かれもしないことまでしゃべってしまう。
やっぱり聞く人がうまいと、ついつい乗せられて話すものだ。
自分がインタビューするときの参考にもなる。

夕飯は人と会って外で。
帰ってきて、これから原稿を1本。
早く書かないと寝る時間がなくなる〜。

寒い如月の始まり

今日から2月。日記もちょっと文体を変えようと思う。
ここでは本音がんがん書くつもり。
今日は雑用をいろいろこなすはずが、起きれば夕方、の日。
今日になって麻雀疲れが出たか・・・。
一応、朝まで仕事してたから・・・と言い訳。

昨日は新宿・紀伊国屋ホールの寄席へ行った。
初花の「牛ほめ」、菊之丞の「明烏」、扇橋の「あんまの炬燵」
花緑の「夢金」、権太楼の「茶の湯」というプログラム。
菊之丞という人、初めて聴いたけど、若いわりに若旦那や花魁の描写がうまい。
今後が楽しみ。花緑は、このところよく聴いているのだけど、勢いがあって、
何より自分らしい工夫がある。
権太楼という人は、とにかく顔で得してる。まさに福顔で、
こういう明るい噺をやると、客席が明るくなる。
落語って楽しいなあ・・・

それにしても、中尊寺ゆつこさんの死はショックだった。
面識はないけれど、同世代の死はこたえる。
時代を先取りできる人だったのに・・・

中村七之助丈の事件も驚いた。
まあ、酔って警官殴った、というのは社会的には許されざることだけど、
警官にケガがあったわけでもないし、それほど騒がなくても・・・というのが本音。
もちろん、擁護しているのではないが、
一般人だったら、それほど大騒ぎになるようなことでもないだろう。
正直言うと、私は芸で楽しませてくれたら、多少のことはいいんじゃないの、と
思っている。人格がどうあろうと、私生活がどうあろうと。
立派な人、である必要なんてないんじゃないか、と。
まあ、これはどの職業にも言えることではあるが。
その職業で一流であるなら、他のことはどうでもいいはずなんだけど。
昨日の寄席で噺家さんが言ってた。
「我々の世界では、あんなことは日常茶飯事。有名じゃないから騒がれないだけ」
って。
もちろん、いいことじゃないし、ちゃんとそれなりに罪は償うべきだけど。
歌舞伎の世界で、隠し子騒動なんてのもあったけど、
今は情報社会だから表面化してしまうだけのこと。
それくらいのことは、あの世界ではいくらでもあるだろうし、
当事者同士の話がついていれば、社会的に制裁を加えられるような問題でもない。
芸の世界において、「人として立派」であることを求められるなんて、
なんだかおかしいような気がするなあ、と思ってしまう。