パキスタン地震の新しいニュースを聞くたび、胸が痛む。
犠牲になったJICAの方と幼い子供。奥さんは救出されたとき、
「夫と息子が守ってくれた。ふたりが亡くなっているのはわかっているので、
あとでいい。生きている人を先に救出してあげてください」と言ったそうだ。
気丈な女性である。6時間も閉じこめられていたあとに、そんなことを言えるなんて
本当にすごい。
犠牲者は4万人にものぼるという。いまだ瓦礫の下にいる人々の中に
きっと生きている人もいるはず。援助物資も届いているのに、肝心の人たちには
わたっていないようだ。もちろん、助ける方も必死だとわかってはいるのだが、
おそらく犠牲がひどすぎて、なにも把握できず混乱状態なのだろう。
なにもできない私としては、こういうとき、いつもせめて募金なりと、と思う。
それが偽善であれ自己満足であれ、まったくなにもしないよりマシだと思うから。
このところ、何本かオペラに行ったけれど、
感動! すごかった〜というものには出逢えず。
総合芸術の場合、やはり出演者も演奏も演出も、
もっといえば衣裳も照明も、なにもかもがよかった、というケースは
めったにない。
年に1本、あるかどうか。
あとは「まあ、よかった」「まあまあ」「そこそこ」「時間の無駄」など
評価はいろいろだ。
だが、実際には、素人が客観的評価などできるわけもなく、
実は観るほうのそのときの気力体力というのが大きいと最近思うようになった。
寝不足でうとうとしつつ観ていても、決しておもしろいとは思えないし、
たまたま頭が冴えていて(めったにないけど)、細かいところまで目がいった
結果、よくできてる〜と感動することもある。
ナマの舞台は、演じるほうと観るほうのある種の対決と共有。
このバランスがとれたとき、いい舞台になるのではないだろうか。
昨日の日記はほとんど無意味な言葉の羅列・・・。
言葉を言葉として成立させるために、無理矢理吐きだしているかのようだ。
最近、やたらと「言葉」について考えてしまう。
書いても話しても、言葉はどこまで人の心に届くのか、ということについて。
何をどう表現したら、言いたいことが伝わるのか。
いや、そもそも伝えなければいけないのか・・・。
わかりあうのは、言葉によってだけなのか・・・。
考えすぎると、またドツボにはまる。
そういえば、珍しく、元オット(夫です)と電話で話す機会があった。
深夜、彼は泥酔状態。
まあ、私と一緒にいるときは朝から泥酔していた人だから、
深夜の泥酔はどうってことないのだが。
2年だか3年だかぶりに声を聞いたが、人間ってそうそう変わらないものだ。
以前は、彼女にふられるとよく電話をかけてきたものだが、
最近はとんとかけてこなかった。
私は元オット相手だと、人格が豹変してしまい、
言いたいことをがんがん言ってしまう。
「そういうところがアナタのいけないところなの! だからふられるのよ!」
などと言うと、「っざけんなよ、おめえだってよぉ」などという言葉が返ってくる。
この人、江戸っ子ではないのだが、落語に出てくるちょっと間抜けな長屋の職人、
みたいな気質なのだ。言い換えればフーテンの寅さんみたいだ。
学生時代の同級生で(彼のほうが2歳下だけど)、20代の大半を一緒に過ごして、
結婚までしたけど、お互いにめちゃめちゃに傷つけ合った。
若かった。理解しようとするより先に、まず相手に刃を振るっていた。
あれが「関係」といえるものだったのかどうか、いまだにわからない。
私が今も結婚しないのは、「結婚」という形そのものに
向いていない自分を見つけたからだが、
元オットの場合は、私に懲りて女全般が怖くなったから、らしい・・・。
寅さんはしきりにそう言うが、寅さんだもの、私以上に結婚には向いてないはず。
泥酔したままへろへろとわけのわからないことをしゃべり、
途中で意味不明の英語を連発したあげく、
寅さんは「じゃあな、またな」と電話を切った。
相変わらず・・・だが、元気でいることだけはよくわかった。
元オットは友だちでもなく、親戚でもなく、
本当に元オット以上でも以下でもない不思議な存在だ。
いつも泥酔しているのだから、車に轢かれないように。