最近の日記

相変わらず・・・

さん喬さんの追っかけ状態はまだ続いている。
とはいえ、狙っていたチケットはとれないし・・・。
改めてこの人の人気に驚いてしまう。

ちょっとシニカルで照れ屋。
だが江戸っ子の気っ風を感じさせる落語家。
自分自身に対して、落語に対して美学がある。
「美学」は、一時期流行った「こだわり」とは違う。
もっと大きな、志のようなもの。

取材させていただいたハイパーレスキューの人たちもそうだけれど、「志」のある人は、ちょっとやそっとのことでは、ぶれない。軸がしっかりしている。女が本当に惚れてしまうのは、そういう「志」をもった男なのだと思う。

ジェンダーフリーが叫ばれ、男と女はまったく一緒ということになってしまった。何かが違う。そう感じるのは私だけだろうか。

十年ぶりに

ほぼ十年ぶりに、女友だちと会った。変わらないね、とお互いに言い合う。変わっているのだ、きっと。だけど私の中で彼女たちは、あのころのまま・・・。
聞いてみれば、それぞれにドラマがある。生きているのだから当たり前だ。

いろいろなことを経て、それを血肉にして、人は素敵に年を重ねる。やはり会えてよかった、と思う。

はて、私はどうなんだろうか。何を得て、何を失い、何を力にしてきたのか・・・。
あんまり「こう生きるべき」なんて思わないし、楽しければそれでいいじゃ〜んというところもあるのだけれど、どうもそれだけじゃ薄っぺらい女になりそう。友人たちに触発された夜だった。

同じ時代に生きて・・・

同じ時代に生きていてよかった、と思える人がいる。
マイケル・ジョーダンもそうだった。

オペラでは、マリア・カラスに間に合わなかったけれど、エディタ・グルベローヴァに間に合った。今年62歳。かつて、この年齢であれだけの声で歌えるソプラノがいたのだろうか。
ウィーン国立歌劇場来日公演での『ロベルト・デヴリュー』を聴いた。タイトルロールよりも、圧倒的な彼女の歌唱にノックアウトされた感じ。細かく聴けば、瑕疵はあるのかもしれない。でもそんなことはどうでもいいと思わされるくらいの、歌の力、声の力。

この人は、普通の人が楽しむ生活のほとんどすべてを犠牲にして、声を大事にしてきたという。あれほどの声を持って生まれてしまった人の宿命なのだろうか。
軽々と歌っていた十年前に比べれば、声を出すために多少身体は動く。だが、十年前よりも、役の心情をストレートにぶつけてくるように聞こえる。

彼女の声を聴いただけで泣けてくる。あの声をナマで聴けることに何とも言えないありがたみがある。

多忙なのは・・・?

仕事が忙しい〜なんて言いながら、このところ柳家さん喬さんの追っかけ状態。前から大好きな噺家さんではあるが、9月の池袋長講から、中毒のようになってしまっている。

今日は鈴本、小三治さんの代演で「子別れ」。
いやもう、泣いた泣いた。
ここ数週間、さん喬さんにどれだけ泣かされたか。
この人は場の切り替えが絶妙なのと、
なんといっても人情を描くのがうまい。
ひとりの人間を幾重にも描き出し、なおかつ終始一貫、その人の心持ちをきちんと描いて見事きわまりない。
たとえば子別れで、息子が50銭もっているのを知った母親が、人から盗んだものではないかと嘆き、折檻しようとする場面。多くの噺家は、母親をヒステリックに描き出すのが、さん喬さんは深い悲しみをもって母を演じた。そして、最後の最後に、別れた夫と再会、またよりを戻そうというときに、「自分ばっかり好き勝手なことしやがって、ばかやろー」と今までの思いの丈をぶちまける。

それまで必死で耐えてきた母親の心情が一気にあぶり出される。

うまい噺家はたくさんいる。おもしろい噺家もたくさんいる。だが、うまくておもしろくて、なおかつ「人間」を描ききれる噺家はそうはいない。

安全でおいしいもの

汚染米、事故米が話題になっている。工業用のものを食用として売るなんて、いったいどういうことなのか、理解に苦しむ。食べるものを扱う人の意識の低さが腹立たしくてならない。

一方で、安全で安心でおいしいものを、苦労しながら作っている人たちはたくさんいる。こういう人たちにもっとスポットライトが当たってもいいはずだ。

食べ物は大事だ、と思うようになったのは30代半ばを過ぎてから。農薬、添加物・・・。そういうものをできる限り排除して、安全でおいしいものが食べたい。探してみれば、あちこちにいるのだ、そうやってがんばって「こだわって」いる人たちが。だが、がんばっている人たちに、なかなか世間は注目しない。

いくら安全でもおいしくなければ、食べられない、飲めない。でも本気で「安全、安心」にこだわっている人たちって、「おいしい」にもこだわっているものだ。そして、できる限り、値段もリーズナブルにとがんばっている。偽造している人たちとは、最初から意識が違うのだ。

おいしくて安全でリーズナブルなコーヒー、手に入ります。私はすっかり応援団。気になった人は私まで、メールください。

いい男とは・・・?

2日にFM東京(ラジオ)にナマ主演した。「21世紀のイケメンとは」というテーマ。
気軽にしゃべってきたのだが、帰ってきてから、「いい男」ってなんだろうと考えてこんでしまった。自分にとっての「いい男」さえいればいいのではあるが、一般的に言って、好ましい男像というのはかなり変化してきたのかもしれない。

いわゆる男臭さが嫌われ、優しくマメで無味無臭のような男ばかりになってしまった。男言葉は失われて、男たちの声は妙に高い。

いろいろな意味で、男女に与えられる機会は均等であるべきだし、立場として対等であるべきだとは思う。だが、やはり「男女の違い」というものはあるし、それを互いに認め合うところから、男女の関係というのは成り立っていくのではないかと思う。「何もかも一緒」では、男女間のエロスはなくなってしまう。

その番組では、女性たちによって、「イケメン」投票がおこなわれているのだが、男たちが客観視されるなんて、いい時代になったのかも。
どこぞの首相は、「自分を客観的に見られる」とキレていたけど。
「あなたとは違うんです」って流行語になりそう。

敗戦記念日

昨日は、忘れてはいけない敗戦記念日。
先日、若い人たちへの街頭インタビューで、「昔のことには興味がない」「知らないから」と言うのを聞いて悲しくなった。知らないなら知ろうとすればいい。
昭和がどんな時代だったかを。
30年代が懐かしいとブームになったけれど、それはあの戦争の名残でしかない。貧しかったのだ。

私の伯父も戦争で死んでいる。遺骸もない。どこかの南の国できっと土に還っているのだろう。
知らないうちに靖国神社に祀られていたらしい。遺族が抗議したけれど、はずしてはもらえないようだ。
戦犯たちと一緒に、ただの兵隊が、死にたくなかった若い青年たちが靖国に祀られている。本人は望んでいるのだろうか・・・。

私は靖国神社に行ったことがない。見たことのない伯父が祀られている靖国に行ったほうがいいのだろうか。それとも話に聞く、やんちゃで愛すべき青年だった伯父の私なりの面影を、心にとどめておくだけでいいのだろうか。
この時期になると、見たこともないけれど、「いいヤツ」だったらしい伯父のことが思い起こされる。

朝青龍のいない場所なんて・・・

誰がなんと言っても、私は朝青龍のファンだ。
いろいろあっても、彼のいる場所はおもしろい。
相撲は神事だというけれど、そういうことにこだわるのなら、外国人を入れなければよかった。入れたのなら、それなりの教育もするべきだったし、彼らのアイデンティティも大事にするべきだろう。

私は、外国人力士が優勝したときには、その国の国歌も流せばいい、とずっと思っている。帰化した人は別としても・・・。

知らない国で、何かを成すというのは大変なことだ。少なくとも、彼らは相撲人気に貢献してきた。そういうところだけ彼らにおんぶに抱っこしてきて、何かあったら責め立てるというのは、とても残酷なことだと思う。

朝青龍に全盛期の勢いは戻ってこないのだろうか。なんとかがんばってほしいのだけれど。

野茂引退

野茂投手が引退を表明した。野茂が大リーグに行かなかったら、今のようにいろいろな選手が行けるようにはならなかっただろう。そういう意味でもパイオニアだ。
なにごとも多くは語らず、野武士のような選手だけれど、笑顔を見ると、人のよさがわかる。日本のような息苦しい国が合わなかったのかもしれない。

去年だったか、テレビで野茂投手がドミニカにいると知ってびっくりした。どこであってもいい、野球をやりたいということなんだろうなと思った。そして再度、大リーグに甦ったのだから、その根性たるや、本当にすごい。

東京国際ブックフェア

10日はビッグサイトでおこなわれているブックフェア初日。午後から読売グループのブースで、『婦人公論』の編集長とトークショーをおこなった。
一般公開は、この土日。

真っ昼間から不倫だの既婚者の恋だの「セックス」なんて言葉をマイクを通して流しているのは、果たしていいのやら悪いのやら・・・。
ただ、だんだん人が集まってきてくれたのはうれしかった。
終了後は本を買ってくださる方がいらして、ミニサイン会状態に・・・。
恥ずかしかったが、いろいろな方とお話できて、これもまた楽しかった。

今回は業界関係者が多かったのだが、もっと読んでくださる方との距離を縮めたい。顔を見て話したいという気持ちも大きい。
何かいい方法を考えていきたい。

仲浦さん

Nakauraさんの本名は、仲浦好一さん。子どもがいるようだ、家ではゴミ出しもしているらしい。

毎週のオンエアで、少しずつ仲浦さんのことがわかっていく・・・だから何なんだ、という気もするが、やはりファッションへのあの情熱、「女性は男と違って、おしゃれの幅が広いはず。だからもっともっときれいになってほしい」という気持ちが、画面から伝わってくるのが興味深い。

昨夜も仲浦さんは、視聴者に健康を気遣われてうるうる・・・。「毎週、泣かされるんだもん」とつぶやいていた。

テレビというのは、その人の人柄が透けてみえる。一瞬の表情も逃さないことがある。仲浦さんがずるいことをするようには見えない。視聴者はそれをわかっている。
だからこそ、政治家のみなさん、実業家のみなさんは自分を磨いたほうがいい。ずるそうな顔、みんな実は見抜いているはずだから。

またまたQVCネタ

QVCのゲストで私が気に入っているのが、Nakauraさん。木曜日の夜中0時半、昼間も担当している。ファッションの紹介をしてくれるのだが、彼のコーディネートには、ファッション哲学があり、そのまま実践できるヒントに満ちている。

どうやらファンが多いらしく、番組中にかかってくる視聴者からの電話は、Nakauraさんを激励したり感謝したりするものばかり。そうすると、Nakauraさん、感極まって泣き出してしまうのだ。

私は男が泣くのを許せないタチなのだが、なぜかNakauraさんの涙は許せる。彼が中性的な雰囲気をもっているせいもあるのだろうが、感性の豊かさから涙もろくなっているのがわかるからかもしれない。
ちなみに中性的雰囲気というのは、女性っぽいという意味ではなく、「男」を妙に売り物にしていないという意味。ファッションを紹介する上で、男性目線も女性目線ももっているところが興味深い。

ファッション業界が長い、70代のお母さんがいる、少し前に病気して番組を休んでいたらしい、ということ以外、何もわからない。いったい、どういう経歴の人なんだろう・・・。

せつないことが増えていく

と、昨日の朝の「目ざましテレビ」(フジテレビ)で、大塚キャスターが、小田和正さんのインタビューに際して言っていた。
「年をとると、なんともせつなくなることばかりだ」と。
それに対して、小田さんは「それはそれとして置いておいて」走り続けるしかないのだと言っていた。

確かに、せつないこともやるせないことも増えていくばかり。腹の底から笑ったのはいつだったか・・・と思うことも増えていく。笑っていても、腹の底ではそこはかとないやるせなさを抱えていたりする。それが大人だとしたら、それもまたせつない。

なんだか大塚キャスターの気持ちが痛いほど伝わってきて、朝からしみじみしてしまった。
周りにいたもっと若いアナウンサーたちには、その心情は、心から理解はできなかったようだ。

年齢を意識してそういった心情に陥るわけではないのかもしれない。そういった心情になってみて、初めて人は年齢を感じるのかも・・・。

新派

6月、新橋演舞場で新派公演が上演されている。
昼は「婦系図」、夜は「鹿鳴館」だ。
新派120周年記念。

歌舞伎を見始めて新派も見るようになったのだから、四半世紀以上見ていることになる。
今回は「婦系図」を見た。
いやあ、泣ける泣ける・・・。
乱暴な言い方をすると、新派の「婦系図」とオペラの「椿姫」は、義理ある人に無理矢理別れさせられた男女、そして最後に女が死んでしまうという点で似ているのだが、決定的に違うのは最後の幕切れ。
椿姫では、別れた男が死の床にある女の元にかけつけ、彼に再会できた喜びのうちに、彼女は死んでいくのだが、新派は間に合わないというシビアな結末。

このあたりが「日本の美学」なのかもしれないなあと思う。再会して魂が救われる、というヨーロッパ的な結末ではなく、やりきれない、どうしようもない悲哀の中に、日本人の美学が隠されている。

あれこれ・・・

このところ、テレビ通販のQVCにはまってしまっている。特にアクセサリー。
この夏はちょっとアクセサリーに凝ってみたいなあと思っていたらQVC。案外、いいものが安い。やばいやばいと思いつつ、気づいたらPCでクリックしてしまっている。

5月下旬は、ずいぶんと寄席に通った。前からうまいけれど、さらに上り調子で勢いを増している菊之丞さんを聴きに。
ただ、寄席に行くと他の噺家さんにももちろん目がいく。私が気に入ったのは「柳家さん生」さん。
淡々と明るい芸風で、軽い噺がとにかくうまい。しかも、マクラから本題への入り方が、どんな噺も非常に見事。「さあ、本題ですよ」なんて野暮なことは決して言わない。いつしか本題に入っていて、しかもマクラがいつの間にか生きている。落語はこうでなくっちゃ。

しかし、落語ってぇのは本当におもしろい。寄席で過ごす、ある意味「無駄な」時間は、人として何か正しいことを教えてくれるような気さえする。
おもしろがろうとがんばったり、論評したりしないで、ただひたすら身を委ねるのが、落語の正しい聴き方なのではないか、と思う。

気になる人々

最近、気になる人々。
12年ぶりに現役復帰したテニスのクルム伊達公子さん。勝負魂は消えないものなんだなあ、と痛感してしまう。

阪神の金本選手。鉄人と呼ばれて久しいが、彼のすごいところは、「自分は意志が弱くて禁酒禁煙ができない。それなら、それを上回るトレーニングをしよう」と、実際にしているところ。完璧な自己管理ができる人もすごいけど、自分を解放しながら、それ以上のトレーニングをする人もすごい。

俳優の水谷豊さん。
この人はかつてのATG映画の匂いがするのだけど、あのころの俳優さんたちと違って、本人の個性が強すぎないところが不思議。役の個性はこの上なく強いのだが、本人がどういう人なのか、イマイチ伝わってこなかった。
最近、映画のプロモーションでテレビに出ているのを見るけど、なんだか「いい年の取り方をしているなあ」と感じさせられる。
どういう心づもり、どういう志で俳優という道を究めてきたのか、聞いてみたい気がしてならない。

2ヶ月ぶり・・・

4月の歌舞伎『勧進帳』は片岡仁左衛門の弁慶がすばらしかった。勧進帳で泣いたのは、芝居を見始めて四半世紀以上たつが、初めてのこと。

上方歌舞伎というのは、そもそもわかりやすいのだが、今回のわかりやすさは、現・仁左衛門が上方歌舞伎を踏襲しているということ以上に、彼自身がきちんと台本を読み込み、弁慶になりきっていたからだろう。いわゆる「ハラのある演技」だったから。あまりに感動して、あわててもう一回見に行き、さらに号泣した。
弁慶にとって、義経を守るのは「任務」だ。命を賭けた任務をまっとうするため、彼は瞬時に機転を利かせる。それがわざとらしくないのが、仁左衛門のすばらしいところ。「段取り」に陥りやすいこの超有名芝居に、新たな命を吹き込んだようにさえ感じた。

5月に入り、鈴本で小三治の落語を聴く。
小三治の顔を見ていたら、不覚にも泣けてきた。
今や大御所となった小三治だし、私はこの人が出てきただけで、なんだかとても幸せな気分になるのだが、この人にとって「落語」とは、何なのだろうと思ったら、なぜか悲しいわけでもないのに泣けてきてしまったのだった。

悲しくないのに泣けてくる・・・。
なんだか最近、多いな、そういうこと、とふと思う。

4ヶ月ぶり・・・?

これは日記とは言わんだろ〜。
思わず自分でツッコミを入れたくなる。

日々、いろいろなことがある。
前の日記から今日までの間に、
すんごくびっくりしたこともあったし、
妙な縁を感じた出会いもあったし。

新しい本も1冊出た。
本を送り出すと、いつものように半鬱状態になる。
二週間くらいはどうも調子が出ない。
送り出した我が子の出来が心配。
世間に迷惑をかけず、できれば受け入れてもらいたいなどと甘いことを考える。

今日はなんだか胸がざわざわして、
ひどくせつない。
人は過去には戻れない。
過去を目の前に突きつけられると、
なんだか遙か遠くに来てしまったような気がして
どこか心許なくなる。

風俗資料館

神楽坂にある風俗資料館へ行った。
ここにはSM関係の雑誌、書籍などの資料がたくさんある。今回は、小妻容子さんの責め画を観に行った。

責め画というと、私にとっては伊藤晴雨なのだが、小妻さんの画も、ひどくリアルで、中には「う〜、たまらん」という感じのものも。
こういった画は好き嫌いが激しいのだろうけれど、自分の何かに響いてくるものがあると、はまる。
自分がなぜこの画にひかれるのか、と考えることは、自分の心の奥深くを覗く楽しさがある。

かつての奇譚クラブなど、SM系の古い雑誌が充実しているのにも目をひかれた。
館長さんが若く美しい女性だというのも、不思議なような当然なような・・・。

パヴァロッティ、オペラ

6日、テノール歌手のパヴァロッティが亡くなった。ここ10年くらいは、活動らしい活動はしていなかったし、私自身、パヴァロッティが大好きな歌手というわけでもないのだが、それでもやはり、どこか「時代が終わった感じ」は否めない。

それにしても、一般的な表記が「パバロッティ」になっているのは解せない。オペラファンにとっては、パヴァロッティでなければ・・・。

彼をナマで聴いたのは、NYのメトと来た「愛の妙薬」だった。あの底抜けに明るい声、愛嬌のある態度は、ネモリーノそのものだったような気がする。

三大テノールの活動にはあまり興味がないので、コンサートには出かけたことがない。
マイクを使った大規模なコンサートが、果たしてオペラ歌手としてはどうなんだろう、と思っていた。

今、チューリッヒ歌劇場が来日中だ。
「ばらの騎士」と「トラヴィアータ」を聴いた。
ばらは可もなく不可もなく、といったところか。
演出があまり気に入らなかった。やはりマルシャリンには、もっと毅然としていてもらわないと、悲しみが感じられなくなる。

むしろ、トラヴィアータは久々のヒット。
エヴァ・メイのヴィオレッタは、決してあばずれてなく、1幕目から「むなしさ」がつきまとう。
そして2幕目、アルフレードの父親が来て、別れるよう説得されるシーン。レオ・ヌッチのジェルモンは、上からの目線で威厳的というよりは、息子を思うあまり、という感が強い。
決して彼女をさげすんでいないという演技だった。
圧巻は、「お嬢さんに伝えてください」というヴィオの歌。ここでエヴァ・メイは突如、最弱声に落とし、静かに静かに歌っていく。
ヴィオレッタの「悲しい諦め」が伝わってきて、珍しくこのシーンで号泣。
演出がオーソドックスでほっとした。

最近は序曲で、いらんことしたり、
最後はすべてヴィオレッタの幻想だったようにしたりと、この演目で苛立つことが多かったから。
オペラを演出で見せるのは無理があるように思う。
これに関しては、私は保守的だ。
なぜなら、オペラの神髄はやはり歌とオケだから。
演技、演出はあくまで二次的なものでしかない。

トラヴィアータは、矛盾も多く、実はツッコミどころ満載のオペラなのだが、歌と演奏でねじ伏せてくれれば、文句を言うことも忘れるのが聴衆というもの。
それを改めて感じさせてくれた、チューリッヒのトラヴィアータだった。